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闇夜(やみよ)()く、あの(とり)(よう)に。

 

Y


『はい、野場です。只今留守にしております。御用の方は発信音の後に、用件とお名前をお話し下さい』
 そのまま受話器を取らずにいると、自動的に留守番電話へと切り替わり、薫子が録音したトーンの高い声が流れる。
『あ、俺。支那です。鶫ぃ、怪我だか病気だか知んないけど
1週間も休みやがって。五和もすっげー心配してたぜっ。別に俺は心配してないけどな。取り敢えず、今日の分までの授業ノートのコピー持ってくかんな。いーか、今日は逃げんなよ。じゃなっ』
 いかにも支那らしい、早口で勢いのあるメッセージが次いで流れた。
 鶫が大きくため息をつくと、すかさず玄関のチャイムがなった。
 ピンポーン
 はじめは
1度。
 ピンポンピンポンピンポーン
 続いて
3回。
 ピンピンピンピンピンピンピンポーン、ピンポンピンポーン
 ……
 それでも出ようとしない鶫に痺れを切らしたように、罵声が響く。
「つぅぐぅみぃ――――――――――――。居るんだろッ
!? 俺はわかってんだよッ。観念して出て来い、この馬鹿野郎ッ!!
 確かめることをしなくても、それは支那の声だとわかった。
 仕方がなく立ち上がり玄関のドアを開けると、やはりそこには息を切らした支那が立っていた。
「支那……」
「やっぱり居留守かよ。
1週間ずっと電話も繋がんねーからびびってたんだぜ? ったく、心配して損したぜッ。で、病気だかなんだか知んねぇけど、具合は?」
「生憎、深刻な仮病だからぴんぴんしてるよ」
「んなことだろうと思ったぜ。ほい、これ、ノートのコピー」
 書店の紙袋――焦茶色の袋に白茶で書店名の印刷がしてある――を渡されて見てみると、中には
B450枚はあるかという大量の紙の束が大まかに2つに折り曲げられて入っていた。几帳面で丁寧な筆跡から、それが支那のものではなく間違いなく五和のものであることを確信する。
「わざわざ、すまなかったな」
「何、いいってことよ。それより、早く学校来いよぉ。あんまりにもサボってると勉強とかにもついていけなくなるし。それに薫子センセーもお前のこと心配してたぜ」
 支那は……いや、殆どの生徒は薫子と鶫が親子だということを知らない。だからといって、留守番電話の薫子の声に気付かない筈はないと思われるのだが。
 鶫がそんな風に思案していると、支那はふと何かを決心したかの様に顔を上げ鶫の目をしっかりと見据えて口を開いた。
「……あのさ、鶫、もしかしてお前…………、いや、何でもない。じゃ、また明日な」
 慌しく身を翻すと、支那は呆気に取られている鶫を残し外へと駆けていった。
「支那は、このコピーを渡すのに三日三晩悩んでた」
「五和」
 振り返ると、いつの間にかそこには五和が立っていた。
彼はにっこりと柔らかく微笑む。
「些細なことに一喜一憂して……莫迦(ばか)みたいだよ。おれも支那も」
 その笑みはどこか苦味を含むものだった。五和の顔を凝視している鶫に気付いてか、彼は鶫から目を逸らす。
「なんでもないよ。これ、前に言ってた支那が好きな本なんだ。無理にとは言わない、でもよかったら読んでやってくれよ」
 それだけ言うと、何の説明も無しに五和は帰って行った。
 渡された厚手のハードカバーの表紙には行書体で『回廊に咲く華』と書いてあった。

□■□■□

 五和の本意がわからないまま、鶫は1人彼に渡された本を片手にあれこれ思案する。しかし覚悟を決めてハードカバーを開いた。
 恐らく支那あたりが何度も何度も熱心に繰り返し読んだのであろう。使い古しの辞書の様に、角が擦り切れている。それだけ支那がこの本を愛読してきたのだということは容易に図り知ることができた。
 どこまでも静かな、誰も居ない空間で鶫はひたすらその本を読んだ。
 国語教師である父への反発心故に物心ついたころから本という本は読んだこともなく、現代文の読解は何より苦手な鶫ではったけれども、不思議とするすると読み進めることができた。
 物語は小枝という名の少女が奏という名の少年に出会った事から始まる。生まれつき躰の弱い奏は何よりも自分の弱みを曝け出すことを厭い、他者に対し頑ななまでに心を閉ざした。勿論、小枝に対しても例外はない。しかし、奏の言葉の刃に傷つきながらも、小枝は彼に惹かれずにはいられなかった。
 全編はまるで川の様に時に静かに時に激しく流れてゆく。
 小枝の切々とした想いは、鶫の中でどこか薫子の父への思いとダブった。
 丁度半分ほど読み進めたところで、薫子が帰ってきた。
「……お帰りなさい」
「今日は怒ってないのね。……あら、北野野鳩の本じゃない」
 電気を付け忘れた薄暗い部屋の中、表情は読めない。鶫は出来るだけ平静を装って口を開く。
「五和が置いていったんだ。はじめて読んだけど、そんなに読みにくいものでもないね。この人の本、また新しいのとかでるのかな」
 どこか拭い去ることのできない後ろめたさのせいか、饒舌にまくしたてた。
「出ないわ」
「え?」
 やけに確信を持ったひんやりと冷気を含んだ声に、鶫は顔を上げた。
「もう永遠に“北野野鳩”の新刊は出ないわよ。“北野野鳩”はもう居ないもの」
「それってどういう……」
「まだわからないのかしら。……“北野野鳩”は私と、それから貴方のお父さんのことなのよ」
 表情はあいかわらずよく見えないが、口唇の動きから薫子がくすりと笑ったのがわかった。異様な雰囲気に鶫は息を呑む。それから、薫子は再び言葉を続けた。
「私はこの高校で野場先生――貴方のお父さんに出逢ったわ。教師と生徒としてね。私はその頃から作家を目指していて、先生の授業が大好きだったの。まだ幼かったし、莫迦だったからね。すぐに先生に夢中になったわ。同年代の男の子なんて眼中にないくらい、ね。でも、先生にとっては私はただの生徒でしかなかった。先生が愛していたのは鶫が生まれてすぐに死んでしまった1人目の奥さんだけだった。悔しかったわ。卒業したら吹っ切れるかと思ってたんだけどね、よりによって初恋で(つまず)いちゃったからかしら。私は先生のことを忘れることができなかった。だからね、他の2番目からの奥さんと同じ様に、私は交換条件であのひとの妻になった。最も、私には彼に与えられるお金や地位は全くなかったけれど。それがあのひとに作家となるチャンスを与えることだったのよ。あのひと、教師なんてやってたけれど、本当にやりたかったのは作家としての仕事だったから。丁度私は友人のつてでデビューが決まったからね。その権利と引き換えに婚姻届に判を貰ったのよ」
 一気に、捲くし立てた彼女を呆気にとられ見つめる。
「どうして今更そんなこと……」
「鶫はあの時言ったわよね。『僕は父が嫌いで、父を好きな貴方も嫌いだ』って。確かに8年前はあのひとを好きだった。でもね、最近は密かに怨んでさえいたわ。何もかも手に入れた筈なのに時々ふと思うのよ。あのとき先生と出会わずに居たらって。今年に入ってからはいっそ死んでくれたらって願ったりもした。まさか本当になるとは思ってもみなかったけれど。……わからないのよ、今となっては。私は本当に先生を愛していたかどうかなんて」
「薫子……さん?」
「貴方の望み通り、私は此処を出て行くわ。でも勘違いしないでね。これは貴方の為なんかじゃないわ。私自身の為よ」
 薫子は再び微笑んだ。
 コントラディクションが仄かに香る。
 言葉は出てこなかった。
「じゃあね、鶫」






 それが、鶫の覚えている限りでの薫子の最後の言葉だった。

 

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